最近、個展を開きました。
自分にとって、その出発点はただ「やりたい」という気持ちだけでした。
今思えば、何もわからない素人なのに、かなり浅はかだったのですが、一度ぱっと思いついたら、やってみたいという気持ちのほうが強くなってしまうほうなので、今回もその気持ちに従って、結局開催にたどり着くことができました。
緊張したのもつかの間で、準備期間はとにかく仕上げなくてはいけないということのほうが強く、ひたすらに進まない自分の要領の悪さをのろいながら、一生懸命走りました。
新たに発見したこともあったし、自分は表現者としてまだまだ未熟なのだとも思いましたし、友人たちが時間を作って足を運んでくれたことにとても感動しました。
いろいろ思うことがある中で、みんながワタシにくれた言葉ひとつひとつを取り上げてみても、実にさまざまな想いが見え隠れしているのだと感激しました。
ワタシもブログなどでよく映画評や書評などを書き連ねていますが、それはワタシの言葉であって、本当に作者がそのように思ったのかということはお会いでもしない限り一生わかることはありません。
その作品をいったん自分の中に取り入れ、そして感じることで、考えさせられたり気持ちが動いたり、そういうことがおこるということなのです。
今回も詩をいくつか発表していて、とても前向きな気持ちになったという言葉もあれば、じんと来たという言葉もあり、それぞれみなさんの心の中にある私の作品はワタシのもののようで実はすでにそうでないのかもしれないなと思いました。作品を発表するということはそういうことなのだなぁと。
最近、「静かな爆弾」という小説を読みました。
とても静かにストーリーが流れていくのですが、とても難解なお話でした。偶然にも、同じくして、表現することを実感していたので、この話はとても心に響きました。
解釈がとても難しく、そして主人公は伝えるということ、自分がどこかで安心し信用してしまっている何かに疑問を持っている、改めて「発信していく」ことの難しさを考えましたし、自分でどうこの物語に向き合えばいいのか悩めました。
まだ答えは出ていないのですが、これまでもそれほど表現することや人とコミュニケーションをとることが苦痛でなかったので、程よく鈍感だったのが幸いしたのかもしれないとは思いました。敏感に反応しすぎると、発信することはとたんにできなくなります。あらゆる人のことを考える「思いやり」は必要だと思いますが、敏感になりすぎるということはそれとはまた別のことです。
何がいいのか、何を選ぶのか、自分の欲望に実にシンプルにいけば、答を探すのなんて簡単なのに、いつの間にかいろいろ尾ひれがついて、欲望に忠実というよりは、生きやすいほうを選んでいっているかもしれない。
これをしたほうがいい。
そんなことでいろんなことを選んできたのかもしれない。「したい」のではなく「したほうがいい」。誰かの顔色を見ている、何かの評価を気にしている。
そこで、ふと気づいて自分の欲望のままの答えを出すことができたときに、吹っ切れることができるのかもしれないですね。
でもやっぱりそこで、それがいいのかどうか・・・自分の中だけで答えを出すのもこれまた危険だったりします。
自分にとって、その出発点はただ「やりたい」という気持ちだけでした。
今思えば、何もわからない素人なのに、かなり浅はかだったのですが、一度ぱっと思いついたら、やってみたいという気持ちのほうが強くなってしまうほうなので、今回もその気持ちに従って、結局開催にたどり着くことができました。
緊張したのもつかの間で、準備期間はとにかく仕上げなくてはいけないということのほうが強く、ひたすらに進まない自分の要領の悪さをのろいながら、一生懸命走りました。
新たに発見したこともあったし、自分は表現者としてまだまだ未熟なのだとも思いましたし、友人たちが時間を作って足を運んでくれたことにとても感動しました。
いろいろ思うことがある中で、みんながワタシにくれた言葉ひとつひとつを取り上げてみても、実にさまざまな想いが見え隠れしているのだと感激しました。
ワタシもブログなどでよく映画評や書評などを書き連ねていますが、それはワタシの言葉であって、本当に作者がそのように思ったのかということはお会いでもしない限り一生わかることはありません。
その作品をいったん自分の中に取り入れ、そして感じることで、考えさせられたり気持ちが動いたり、そういうことがおこるということなのです。
今回も詩をいくつか発表していて、とても前向きな気持ちになったという言葉もあれば、じんと来たという言葉もあり、それぞれみなさんの心の中にある私の作品はワタシのもののようで実はすでにそうでないのかもしれないなと思いました。作品を発表するということはそういうことなのだなぁと。
最近、「静かな爆弾」という小説を読みました。
とても静かにストーリーが流れていくのですが、とても難解なお話でした。偶然にも、同じくして、表現することを実感していたので、この話はとても心に響きました。
解釈がとても難しく、そして主人公は伝えるということ、自分がどこかで安心し信用してしまっている何かに疑問を持っている、改めて「発信していく」ことの難しさを考えましたし、自分でどうこの物語に向き合えばいいのか悩めました。
まだ答えは出ていないのですが、これまでもそれほど表現することや人とコミュニケーションをとることが苦痛でなかったので、程よく鈍感だったのが幸いしたのかもしれないとは思いました。敏感に反応しすぎると、発信することはとたんにできなくなります。あらゆる人のことを考える「思いやり」は必要だと思いますが、敏感になりすぎるということはそれとはまた別のことです。
何がいいのか、何を選ぶのか、自分の欲望に実にシンプルにいけば、答を探すのなんて簡単なのに、いつの間にかいろいろ尾ひれがついて、欲望に忠実というよりは、生きやすいほうを選んでいっているかもしれない。
これをしたほうがいい。
そんなことでいろんなことを選んできたのかもしれない。「したい」のではなく「したほうがいい」。誰かの顔色を見ている、何かの評価を気にしている。
そこで、ふと気づいて自分の欲望のままの答えを出すことができたときに、吹っ切れることができるのかもしれないですね。
でもやっぱりそこで、それがいいのかどうか・・・自分の中だけで答えを出すのもこれまた危険だったりします。
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by rurucafe
| 2008-03-28 19:57
| エッセイ